| こだわりの「一本〆」栽培田は、与板・城山の真下にあります。城山は、戦国時代に、越後・上杉家家臣「直江家」三代の居城があった地として知られています。戦国の知将・直江兼続は与板城・三代目城主で、与板の街作りの基礎を築きました。 上杉120万石の家老として、また戦だけでなく文化人・知識人としての功績も広く知られています。 |
★与板城の歴史と与板 |
| 戦国時代に、守護・上杉家家臣・飯沼家が現在の本与板に城を構えたのが始まりとされています(現在の本与板城跡)。1514年に守護・上杉房能と守護代・長尾為景の対立により、長尾家が勝利すると、飯沼頼清は没落。変わって、長尾家・重臣の直江家が入城しました。 戦国の知将と評された直江兼続は22歳で与板城主となり、ここを実城として越後の安泰を目指し、戦や政にたいへんな活躍をしました。 兼続は、越後の産業に力をいれ、蝋・漆・からむし・桑などの生産を勧めました。与板城下は人口も増え、開拓も進み、鉄砲製造などの手工業や市場も開かれるようになりました。 1598年に米沢移封を命ぜられ、兼続は与板を去ります。江戸幕府以降、牧野家→井伊家が統治し、1700年に与板藩所が設置されたのを機に、城は廃城となったようです。 標高104mの山城で、真下に流れる千体川・黒川を「内堀」に、信濃川を「外堀」にした、天然の地形を利用したお城だったといえます。 |
| ★直江兼続(なおえかねつぐ) |
| 兼続は1560年、魚沼上田庄・坂戸城に生まれました。父は長尾政景の重臣、樋口兼豊。母は直江実綱の娘。幼名を「与六」といいました。 幼少の頃から、父が仕えていた長尾政景の子で、のちに上杉謙信公の養子となる喜平治(上杉景勝)の近習として、坂戸城や春日山城で学問を学びました。 景勝が謙信公の養子となり、1578年に謙信公が亡くなると跡目争いがおこります(御館の乱)。与六は景勝軍として大活躍します。 1581年、景勝の家臣であった、与板城主・直江信綱が御館の乱の論功行賞の際に、誤って斬られてしまいます。信綱には跡継ぎがいませんでした。戦に勝ち、越後の国主となった景勝は、大切な家臣である直江家を断絶させまいとし、与六を信綱の妻であった「お船」に婿入りさせました。与六は直江家を継承、22歳にして与板城主となり直江兼続と名乗ります。その後、与板の町の基礎を築きました。 以後、景勝の側近として活躍。豊臣秀吉公に『天下の政治を安心して預けられるのは、直江兼続・小早川隆景・堀直政の三人しかいない』と気に入られ、1586年に「従五位下」に任ぜられて豊臣の姓を賜り、1588年には「山城守」に任ぜられました。 1597年に、景勝が「五大老」に任ぜられたのも、兼続の力によるところが大きかったようです。翌年、景勝は陸奥・出羽・佐渡など120万石の加増で会津に移封。それに伴って兼続は、米沢30万石というVIP待遇を、秀吉から直々の命で賜りました。いかに、兼続が秀吉に認められていたのかがよく分かりますね。 軍事力・統治力に優れ、戦国大名として名を馳せる才を持ちながら、常に「私は上杉家の家臣」という立場を捨てず、上杉家のために尽力しました。 「関ヶ原の合戦」で徳川に反した上杉家。会津120万石を没収され、兼続の領土だった米沢に減封。兼続は、その後も米沢で能力を発揮しますが、1619年に60歳で没。 |
| -戻る- |